October 03, 2009

横田洋一著「リアリズムの見果てぬ夢-浮世絵・洋画・写真-」について


横田洋一氏の一周忌に合わせて論文集『リアリズムの見果てぬ夢』が刊行された。

生前の著作百数十点以上から精選された8本の論文と著作目録によって編まれているこの1冊は、開港期から幕末維新・明治・大正と横浜浮世絵、洋画や写真の源流について、追いかけ続けた情熱的な探究の経路をたどることができる。同時にそのフィールドである近代美術発祥の地・ヨコハマへの深い愛着が感じ取れる。

横田氏の自由で闊達な研究姿勢は、ほかでもない勤務先であった県博(神奈川県立博物館、現・神奈川県立歴史博物館)の環境がそれを保障していたのであるが、しかし、その環境の維持への闘争については、序文の青木茂氏の行間からにじむ程度にしか明らかにされていない。闘争で守ろうとした権益が、市民から隔絶した象牙の塔のための研究にあるのではなく、横浜の文化的アイデンティティを構築するための研究にあったことが、平易で親しみ易い文体によって全編に通じて理解される。それは、最後の論文のテーマ岸田劉生の父、岸田吟香による文明開化の開放的で平明な実践とも一脈相通じているものがある。敷居の低さと友好性は、県博という文化機関の大きな特性であり、氏のキャラクターとあいまって近代美術研究の先導役を果たしえたのである。

そうした開放性を特徴とした、商都ヨコハマにおいて、階級社会を飛び越えて交錯するさまざまな野望と東西文化の正面からのぶつかり合いのなかで、カオスそのものから発光される、規定の視覚への挑戦的異物に魅せられたクリエーターたちの果敢な活動と、横田氏はがっぷり四つ相撲を取り続けていた。リアリズム表現を機軸とした研究の蓄積については、体系化に至らなかった未完さを惜しむ声に同感するところ少なしとしない。しかし、そうしたヨコハマの美術以前の総体のキマイラのような魅力は、ともすれば作品のみが一人歩きし、ある種の優等生的な整理整頓によって損なわれてしまう場合が多い。だから、横田氏が自身の興味に素直に則していった帰結のなかに、およそ150年ほど前の人々の仕業と呼吸を合わせたリアリティの掌握をみるとき、惜しみない賛辞を献呈するものである。

特に、横浜浮世絵や五姓田義松の探究には、それぞれ生きるために凌ぎを削りながら、西洋文化への果敢な挑戦を続けたクリエーターに向けて、等身大のまなざしが照射されている。そのほのかなぬくもりが心地よい。ワーグマンについては、大量のスケッチ類をもとに来日前の行動を初めて精緻に整理した展覧会図録の論考が収録されている。スケッチと新聞挿絵の間の構成された差異への指摘は貴重であって、写真と版画類の機能性について作者だけでなく、編集・販売者そして受容層、つまり市場が介在して成立していく過程を掘り下げていくと、リアリズム以前の問題の糸口がみえたように思う。海外のメディアの歴史研究では進んだ論考も出ているだけに、作品と作家を中心に論じる近代美術史の枠組みを一歩踏み出していくと、イギリスの対アジア政策におけるワーグマンそしてベアトの位置づけも再考できるのではないだろうか。

一方、明治天皇の肖像を初めとする貴顕の表象についてなぜ熱心だったのか、理解に苦しむところがある。高橋由一のような士族エリート層ではなかった、草莽の五姓田親子の一大栄誉のなかに、維新期美術行政の原初的平等性をみたのか、あるいは、キッチュでしかなかった石版画の新評価への手がかりを得ようとしたのか、はたまた、さきにふれた闘争のための最後の錦の御旗だったのか、背景がつかめないところの掻痒さは、見果てぬ夢の根底にあるものと同様の感覚がのこる。

その夢の共有者が、氏の遺産を継承してどう深化発展させていくのか、横田氏とは別の柔軟で戦略的な闘争への覚悟が必要とされる。

期せずして開港150周年の年、ポピュリズムにまみれた愚かしい祭政のあと、横浜には空虚ささえ漂っているなかで、試金石のような一書を得たことは幸である。ごく短期間に集中して編集されたということを感じさせない精巧さが、図版の丁寧な配置や装丁の美しさから十分にうかがえる。

購入希望者の連絡先:論文集発行事務局 河野実氏(町田市鶴川4‐25‐17)

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目次
序            青木茂
横浜浮世絵-その虚構と真実
明治洋画と五姓田義松の居場所
三代広重と文明開化の錦絵
 附 三代広重《下絵画稿集》目録
幕末明治の写真史小論
チャールズ・ワーグマン考
版画の中の明治天皇
番傘とアンブレラ
岸田劉生に厭な奴だ、嫌いだといわれた画家たち
 -岸田劉生日記を中心として
著作一覧
展覧会一覧略歴
編集後記   角田拓朗
刊行に際して 河野実
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カラー図版+319ページ

編集・発行 横田洋一論文集刊行会
(青木茂、井上久美子、河野実、丹尾安典、森登)
カバー装丁 野島愛子
制作 学藝書院
印刷・製本 半七写真印刷工業株式会社